spicy days

コーヒー二杯。

今日缶コーヒーを二杯飲んだ。
木枯らしが吹き始めた10月に、甘いコーヒーは疲れた体に最高の潤いだよ。
今日は、一本目にはアイスで。
二本目には、ホットでコーヒーを飲みました。

同じ種類のコーヒーを飲んでいるはずなんだけど、ホットとコーヒー
味が違うことない?
今日は、二本のコーヒーは全く違う味を俺に見せてくれた。
いや、俺の考えからいえば、違う味に“思わせた”。

アイスのコーヒーは、コーヒー味のするミルクのように思わせたけど、
次のホットは、甘過ぎるコーヒーの味だった。

なんだか違和感が拭えなくて考えてみた。多分、色々考える角度はあるだろう。
俺が考えたのはステレオタイプ。
ホットと、アイスの自分の持つステレオタイプが味を変えているんじゃないかと思う。
アイスはアイスで飲みなれたミルクに味を近づける。
ホットはホットで飲みなれたブラックコーヒーに近づける。
コーヒーとミルクが混ざったものを飲むときに、その味を理解するのにあくまで自分の知っている味で理解をしようとしている。つまり、自分の知っていると思っている味(ホットとコールドにある自分のステレオタイプの味)にあくまで比較しながら、近づきながらその味を理解している。

考えていくうちに本質的に“味がわかる”ってことは、
実は、自分にとっての理想(プラトンのイデー)に近づける作業に過ぎないんじゃないかと思った。

そんなことを考えさせた、コーヒー二杯。
  1. 2006/10/23(月) 02:39:39|
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社会悪の断罪とタブーの確立

格差やモラルの低下―例えば路上喫煙、飲酒運転、少し前まではセクハラなど、社会悪に立ち向かう多くのメディアの姿があった。確かにこのような問題は“社会悪”であって取り払われるべき問題であるかもしれない。
それでも、僕には何か違和感が残る。
この社会悪が実は社会悪ではないんじゃないかという違和感と、これまで社会悪と扱われていなかった問題に対して短期間のうちにそれをタブーに仕上げるメディアが取り巻いた言説への違和感だ。
最近では特に飲酒問題がクローズアップされているだろう。
これまで飲酒運転に対して、誰がここまで嫌悪感を抱いていただろうか。この嫌悪感の湧き上がりはほんとにモラルの上昇を意味しているのだろうか。僕にはそうは思えない。先月、三人の子供を犠牲にした福岡の事件以来飲酒運転に対する嫌悪感や意識は高まった。だが、実は飲酒運転の報道はいわば一定期間に“クローズアップ”され次々と私たちの意識を定期的にい保持しているのではないだろうか。実際の飲酒運転の検挙数と報道記事との照合はこのことを示すかもしれない。
社会悪を断罪し、社会的な議論の場となるべきメディアは、正義を貫くはずが実は一定期間に、それも短期間に社会において社会悪を恣意的につくり出し、と、同時に恣意的なタブーを生み出しているのが現状ではないだろうか。多分誰もが社会正義を求めるだろう。だが、極端な社会悪の断罪―社会正義の追求は、逆にあるコントロールする側の存在(国家機関という存在の場合もあるし、メディアを成り立たせているスポンサーの存在)による恣意的なタブーの創出に加担する危険性を孕んでいると思う。
  1. 2006/10/02(月) 00:18:17|
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クマ被害報道について

読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、秋の夜長に、秋雨、月見バーガー。要するに日本人にとっては秋ならなんでもいいという感じが最近多々していますが、新たな秋の風物詩とも思えることがあります。
それはクマ被害報道です。
今日もくまによる被害報道がありました。クマによる被害報道はこの時期連日行われています。
http://www.shinmai.co.jp/news/20060921/KT060921FSI090011000022.htm
ヤフーニュースにいたってはトピックの一つにカテゴライズされていて注目の高さをうかがわせます。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/

テレビでは連日どのチャンネルも、“なぜクマが人を襲うのか”“なぜ人がいるところにクマが現れているのか”といった問題提起から始まります。
だけど、僕は今日何か違和感を覚えました。それはある番組で示された一つの見解から始まりました。今日のクマ被害への見解では、ある森林管理団体の関係者が「クマはブナの実を主食としていて、昨年は豊作だったのですが、ブナは豊作の翌年は必ず凶作になるので食べ物を求めて人里に下りてきているんじゃないか」ということ。(要はだから今年のクマ被害は大きいと)
でも、昨年と同様にクマの報道(背負い投げをしたおじいさんがいたり、飼い犬を殺した挙句殺されたクマもいた)はしていたし、テレビで“クマには十分ご注意ください”とも言われた。実際にくま被害の全体的な状況は知らなかった。個別の具体的なケースを知ることは出来ていたけれど。
こう考えたときにクマの報道は、確かに被害はニュースなのだけど、逆にテレビニュースの無責任さを浮き彫りにしてもいるのではないかと思う。
つまり、“昨年より被害が大きい”“例年に比べて被害が増えた”と、曖昧な数字でニュースを構成すること、そして、遭遇現場で被害者にクマとの格闘や当時の状況を語ってもらうことで、よりセンセーショナルなものをつくっているだけではないのかと思う。クマ被害の報道特にテレビ番組は、個別の状況を詳しく知ることが出来ても、多くの場合実際にいかに社会的問題となっているかということを覆い隠されているという意味で、ニュース構成の無責任さを露呈しているように思える。
  1. 2006/09/23(土) 00:18:09|
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キャパの目に見えていたもの

heishi.jpg



ロバート・キャパ、
いわずと知れた報道写真家。
スペイン内乱の際に従軍し発表した「崩れ落ちる兵士」で彼は世界に名を知らしめた。その後も日中戦争、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、第一次中東戦争に従軍しシャッターを切り続けた。そして1954年のインドシナ戦争中のベトナムで彼は地雷を踏み命を落とした。

仲間とのカードゲームをこよなく愛し、明朗な性格ゆえに多くの人が彼との交流を好んだ。
スタインベックやヘミングウェイなども彼に惹かれ、交わった仲間の一人だ。
彼の友人の一人は言う。
「キャパは誰に何も言われなくとも、初めから何を撮るべきか知っているのさ」
彼の目に写っていた“真実”、それは一体何だったのだろうか
そして、彼が映し出した“真実”それ一体何だったのだろう
カメラは確かにあるがままを写し出してくれるものであるかも知れない
だけど、写真に写るものが常に真実であるとは限らない。
フォーカス、明暗、コントラスト、構図、全ての小さなことが、写真に写る真実を捻じ曲げる。
そして我々に、捏造された事実を与える。
捏造がいいか、悪いか、それはもはや問題でない。
あるべきままを写し出す全て物は人間のフィルターを通したときに何もかもが真実を曇らせ“事実”へと生まれ変わる。
キャパは、彼も持つ“真実”をレンズという媒体を通して表現した。
そして、見る人に“事実”を生み出しそこからまた“真実”が再生産される。
結局写真は写真でなく、キャパの表れであるのかもしれない。

テレビ、広告、ネット、ラジオ、看板、デザイン...
写真に限らず、全てのマスメディアに、
マスメディアがマスメディアである限り、
写真がキャパの目が表れであるように
この捏造性は切り離せない。

  1. 2006/08/10(木) 05:44:57|
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偉大なるないぼー「俺は思想家だ」

ないぼーは言いました。
「もう俺くらいまでくると思想家だよ!!」

重度の妄想癖を患っていたないぼーですが、週末久々に会ったら彼はパワーアップしてました。
ブログで毎回「彼女がいたらの話」的な感じで妄想を繰り広げてたんですがやり過ぎでとうとう思想にまで持ち上げたみたいです。
ないぼーかっこいいよ。かっこよすぎるよ!!

川に向かって飛び石しながらとか、夕暮れの剣道場で恋の一本取りとか、マジ、、、いや、かっこいいよ!!

最近巷で流行の妄想学や妄想部ですが俺も思想にまで持ち上げますん。
  1. 2006/06/05(月) 23:49:26|
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